織物の世界に「風合い」という言葉があります。
『ウィキペディア(Wikipedia)』 には・・・風合い(ふうあい、英:handling)とは、
織物や紙などの手触りや肌ざわり、着心地など、
人がものに触れた時に感じる材質感のことである。
その使用例は、タオルや風呂敷などに関する記述で見られる・・・と
解説されています。
言葉にしたら確かにその通りなのですが、
この説明では何かしら大切なものが抜け落ちていると思って、
今月末より始めるワンコイン勉強会で、
民藝運動の父と言われる柳宗悦の「民藝とは何か」
について講義をして貰う滝川和尚さんに「風合い」について話をしました。
そしたら滝川和尚さんが、今から27年前に書かれた
「西楽寺読本」の後書きに『風(ふう)の継承』
という文章を書かれているのだということを教えて戴き、
そしてそれを読ませて頂きました。
その書き出しは次のようになっています。
・・・・・・
私は最近しきりに「風」ということについて考えている。
曰く「家風」「気風」「作風」或いは「風」が逆に付いて「風格」「風物」「風味」
などと使われる「風」に就(つ)いてである。
抑々(そもそも)我々が日常口端(くちは)に乗せる「風」という語は、
非常に漠然とした言葉である。
広辞苑によれば「風」とは、おもむき・あじわい・様子・なにふり・すがた等と
その意味する処を羅列してあるが、我々はこれらの全てを含んで、
更にそれ以上の曰く言い難(がた)いプラスアルファを
意図して「風」という語を使っているのではないであろうか?
・・・・・・と。
その他「風景」と「光景」の違いや「気風」と「気性」の違いなどについても書かれていますが、
読んでいて思う事は、「風合い」も『ウィキペディア』が説明する
「手触り・肌ざわり・材質感」などと云う言葉だけでは無い、
言葉にならない何かを含んでいると私は思います。
もちろん「色合い」などと云うのも「風合い」を決める一つの大きな要素でしょう。
私は前の滝川和尚さんの文章に触れて、
技術やセンスだけでは作り出すことの出来ない織物の味わいについて思いを巡らせます。
それは、『家風』がその家ならではの人格を作り出し、
良くも悪くも『社風』が、その会社に勤める人間の独特の雰囲気を作り出すように、
「丹の布」ならではの「織り風」というものを作り上げていかなければならないのでは無いかと。
今月から始める月に二回の勉強会をなぜ自分が始めようとしたのか、
その事が自分の中で改めてはっきりしてきた気分です。
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